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第8回 武田の史跡めぐり 信濃上田編
第8回 武田の史跡めぐり 信濃上田編

6月15日(日曜日)

今回は、長野県上田市まで遠征史跡めぐりです。

参加者は、
斉藤さん、斉藤さんの娘2人、堀内さん、真壁さん、浅川さん、柴田でした。

8時30分に集合し、途中で峡北組と長坂バス停留所で合流し諏訪経由で上田市に向かいました。

・上田城



上田城の前で記念写真
上田城といえば真田!
気分は真田十勇士です。
でも、ほとんどが30歳代のおっさんです(^^ゞ

上田城では、大手門の中と、別棟にある真田の資料館をじっくりと見学。
みんな熱心に勉強していました。



上田城内に真田神社がありまして、参拝してきました。
ここでは御朱印をゲット!
御朱印を眺めているとありがたい気持ちになります。

・砥石城


午後は砥石城へ
ここで砥石城の御勉強を少しだけ
 

戸石城は、あの信玄が人生最大の敗北を喫した「戸石崩れ」の場所として有名です。
力攻めに及ぶこと一ヶ月、神川の断崖に面し「砥石」のように鋭く切り立った戸石城は全く陥ちる気配もなく、ここで信玄はやむなく撤退を決意するのですが、村上義清本隊の激しい追撃を受けます。
世に言う「戸石崩れ」とはこの退却戦での惨敗を指し、力攻めの失敗、というよりも「進退の時期を間違えた用兵ミス」が損害を大きくしてしまったのでしょう。
ところが!そのわずか数ヵ月後、驚くべき事態が発生します。知謀の将、真田幸隆によって戸石城は乗っ取られた、というのです。この地に多くの縁故を持つ幸隆の調略・説得が功を奏したのは間違いないでしょう。


というわけで、現地現場で学ぶということで
実際に砥石城へ上ってみました!

ふもとから登ること30分
恐怖を感じるほどの急勾配冷や汗
ロープ無しでは登れないところもあります。
これでは、さすがの信玄も攻め切れなかった訳が実感できます。
現場での肌に感じる学びですね楽しい

そして、頂上についてみると





いい眺めで、なんとも言えない爽快感です富士山

下りは少しばかり余裕がありましたので
写真を撮りました。








みんな顔がマジです(^_^;

このように辛い経験を共有するのって、一体感が生まれてよかったですね。

今回いけなかった方からも、行きたいとのリクエストがありますので
ぜひ、次の機会は行きましょう!



執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 22:16
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第7回信玄史跡めぐり 武田発祥と最後の拠点「韮崎」へ
参加者   横山、真壁、金丸、柴田
行き先   11時00分 韮崎市役所集合
      11時15分 武田八幡宮
      11時50分 願成寺
      12時45分 新府城
      14時30分 解散

今回の武田史跡めぐりは、
武田氏発祥の地と最期の拠点である新府城がある韮崎を巡りました。


・武田八幡宮

武田八幡宮は弘仁13(822)年勅命により土地の神、武田王の祠廟に九州宇佐八幡を勧請し併祀して創建されたという。武田王は日本武尊の御子で武田村の桜の御所でこの土地を治められた。さらに清和天皇の貞観年間(859〜76)に京都石清水八幡を勧請し甲斐武田氏の崇敬をあつめた。特に新羅三郎義光の曾孫信義は武田八幡宮の社前で元服し武田氏を名乗り甲斐武田が発祥した。
武田晴信(信玄)は父信虎の本殿再建を引き継ぎ天文10(1541)年12月23日に竣工させた。雄大な姿と華麗な装飾を備えた本殿は昭和4年国指定重要文化財に指定された。勝頼夫人は新府城落城の寸前の天正10(1582)年2月19日氏神武田八幡宮に勝頼の戦勝と武田家の繁栄を祈願し切々たる願文を奉納した。徳川家からは27石余りの御朱印を与えられ保護された。




二の鳥居
神社、お寺は、鳥居から拝見するのが一番美しいそうです。
この武田八幡宮の鳥居は道路のど真ん中です。
普通だったら、邪魔だからどかそうよー、なんて罰当たりな発想になりますが、
韮崎の方々が守ってきたのでしょうね。


武田八幡本殿

天文10年(1541)に武田晴信(信玄)が再建したもので、三間社流造で、屋根は檜皮葺。国の重要文化財に指定されている。尚、本殿裏手には若宮八幡神社本殿(県指定文化財)が建てられている。


武田勝頼の正室、北条夫人の願文の解説です。

「北条夫人は高貴で気高い人柄で、周囲の人々に良い影響を与える淑女であられます」恵林寺の快川和尚が、北条夫人と対面した時の印象だそうです。


武田八幡記念写真

・願成寺

武田の祖、武田信義公が累代の祈願所として再興した寺、願成寺。ここには平安文化を伝える寺宝、阿弥陀山尊像が安置されています。木造阿弥陀如来像、その両脇に観世音菩薩、勢至菩薩が控え、荘厳で上品な姿に心が洗われるようです。


武田の祖、武田信義のお墓
800年前の方のお墓におまいりさせていただきました。


願成寺記念写真

・新府城

歴史
天正三(1575)年の長篠・設楽ヶ原合戦で大敗した武田勝頼は、一門衆の穴山信君(梅雪)の進言で甲府・躑躅ヶ崎館からより要害の効く七里岩の断崖上に新城を築くことを決め、真田昌幸を普請奉行に任命した。天正九(1581)年に築城が始められ、そのわずか九ヵ月後の同年12月に普請なかばで入城した。そのわずか三ヵ月後の天正十(1582)年二月、木曾義昌の離反から織田・徳川の甲斐侵攻が始まり、未完の城では大軍を支えきれないと判断した勝頼は城に火を放ち落ち延びた。この時、岩櫃城に退くことを進言した真田昌幸の言を入れず、小山田信茂の岩殿城を目指したが、三月十一日、笹子峠で信茂の謀叛に遭い、岩櫃城を目指して天目山に分け入ったところを滝川一益の軍に遮られ、勝頼父子は自刃して果てた。新羅三郎義光以来28代続いた名門、甲斐武田氏は滅亡し、新府城は最期の城となった。新府城の残骸では、甲斐に攻め入った織田信長や、本能寺の変の後、甲斐・信濃に侵攻した徳川家康が陣所として利用したこともある。

名門・甲斐武田氏の最期の城になってしまいました。もともと先代の信玄は「人は石垣、人は堀」の歌で知られるように、領国内に城は構えず、人心収攬こそ最大の防御、という信念を持っていましたが、この天正十年前後の情勢では、長篠設楽ヶ原での敗戦が尾を曳いている上、極度の緊迫状態から、要害堅固な城を構えざるを得なくなっていました。

この築城は穴山信君の進言で行われ、その信君の領地にある「七里岩」と呼ばれる断崖絶壁がその城地に選ばれましたが、実はこのとき、すでに信君は徳川に通じていたといいます。一門衆のなかでもとくに信玄との繋がりが濃い信君は、若年でしかも諏訪氏の血を引く勝頼をいつも見下していたといいます。そして、徳川に通じた信君は、武田家の経済基盤を破綻させるためにこの築城を進言したというのです。それは見事に当たってしまい、材木の調達を命ぜられた木曾義昌が真っ先に離反、また強引な遷都に快く思わない重臣、積もり積もる戦陣の軍費調達のために酷使される民衆の不満が頂点に達し、にっちもさっちも立ち行かなくなった、と。

よく勝頼は短慮で浅はかな大将であった、と思われていますが、果たしてそうだったのでしょうか。父信玄があまりにも偉大すぎたこと、諏訪の血を引く自分に家臣が着いて来なかった、頼みにしていた本願寺勢力が防戦に四苦八苦で頼りにならなかった、など、勝頼が自分の力を発揮できないような周辺環境が彼の評価に大きく影響したのではないでしょうか。なにより、織田の勢力が強大になりすぎ、それに比して家臣団を始めとした領国がまとまらない状況では、勝頼でなくても立ち行かなくなっていたことでしょう。勝頼自身は、武勇にも知略にも優れ、また外交面での努力も伺えたと思っていますが、やはり「天の声、地の利、人の心」の三拍子が揃わなかった、武運に見放された、ということですね。やっぱ一番悪いのは信君だと思うけど。

城は断崖絶壁の「七里岩」を最大の要害としていますが、山城というよりは後世で言うところの平山城でしょう。しかしいくら地形が堅固でも、やはり普請が未完成な印象は否めません。とくに北側の出構えなどは、いかにも応急処置的で、本来ならばさらに曲輪を築く、堀を重ねる、土塁または石垣の外郭線を築く、などの工夫があっても良かったところです。二重の土塁虎口などを見ていると、普請奉行の真田昌幸は、自らの居城・岩櫃城をモデルにプランニングしていたのでは?とも思われます。しかし、それらは陽の目を見ることもなく、逆に在城三ヶ月にして自落という哀しい終わりを迎えます。この新府城で戦闘が行われたわけではないのですが、この時点で命運が定まってしまったのかも知れません。

なお、見学中に盛んに鉄砲のような音が響いていましたが、なんと釜無川対岸にライフル射撃場があって、その音だということがわかりました。新府城の廃城後、400数十年を経てもなお、勝頼は鉄砲の音から逃れられないとは・・・せめて安らかに眠らせてあげて欲しいと思うのだが。



新府城の階段
20代、30代の我々でもバテバテになりながら登りました。


本丸でのランチ

勝頼の想いにはせながら、お昼ご飯をいただきました。
それにしても、広いお城の跡地です。
もしも、というのは言ってはいけませんが、
もしも、新府城が残っていた現代の様子を想像してみると楽しい物です。

今回は初めてですが、本職のガイドさんに依頼せずに、
同じ夢甲斐塾7期生の真壁さんにガイドをお願いしました。
現場の下見と予習もしていただき、素晴らしいガイドをしていただきました。

真壁先生、有り難うございました!
執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 19:04
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合宿 〜信玄の隠し湯、川浦温泉 山県館〜
3月1日(土)〜2日(日)
山梨市の川浦温泉「山県館」で合宿を行いました。

受付
公開例会の受付、7期生が取り仕切っています。

塾長講和2
塾長の講和
熱く熱く「志」を伝えてくれます。

塾長講和1
みんな聴き入っています。

小笠原礼法
公開例会第2部は、6期生の木村さんによる小笠原礼法の指導です。

礼
「礼」の角度は決っていますか?

名刺交換2
名刺交換の指導を頂いています。

名刺交換
上甲塾長と名刺交換の練習です(^^ゞ

夕食
公開例会後の夕食
OBも交えて熱く思いを語りました!

山県館古文書1

山県館古文書2

山県館古文書3
山県館の非公開の家宝である古文書です。
特別に女将さんが見せてくれました。

今回、山県館さんにはいろいろなわがままを聞いていただきました。
おかげで実りある合宿を行うことができました。
写真はありませんが、ここの御風呂は最高です!
多くの温泉に浸かってきましたが、最もいい感じの御湯でした。

最後になりますが、
女将さんをはじめ、山県館の皆様有り難うございました。







執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 22:03
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第4回 信玄史跡めぐりツアー (セミナー編)
今回は、現場への史跡めぐりではなく
セミナーへ参加しました。

テーマ「武田信玄の偉業」
第2回 武田の経済政策
講師 平山優氏(武田氏研究会編集委員)
とき 平成20年2月16日(土)
   午後1時30分〜3時30分

参加者 横山、河西、一瀬、柴田、柴田の妻

内容としては、武田氏の税制とその運用方法でした。
今までの武田の経済性というと、どうしても金山、甲州金に注目されがちですが
今回は、「税」という今までにないテーマでの研究発表でした。

考えてみれば、甲州金は印傳と同じ特産品なんですよね(ものすごく価値のある)
やはり、財政基盤というのは今も昔も「税」という助け合い制度で成り立っていました。

しかし、平山先生も強調されていましたが、
昔は「徳役」といって領内の有徳人(お金持ち)に多く課税していたようです。

もしかすると、昔の方がクリーンな税制なったのかも知れません。


セミナー後、平山先生と感動の記念写真
平山先生有り難うございました。

執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 13:30
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第3回 信玄史跡めぐりツアー
日時 2008/1/26(土)
参加者  一瀬、柴田、河西、志村、前田
行き先  10時30分 山梨クラリオン
      13時00分 景徳院
      15時40分 解散

・山梨クラリオン内会議室にて本日の予習
勝頼の時代が始まってから、数々の苦難と失望を重ねながらも、ついには力尽き武田氏滅亡に至るまでの経緯を、今回向かう景徳院および大善寺とのつながりを交えて学びました。

・景徳院

景徳院本堂

天正3年5月21日(1575年6月29日)、織田・徳川連合軍との長篠の戦い以降、武田氏は急速に勢力が衰えます。そして天正10年(1582)3月11日、戦国時代最強と謳われた武田氏は、ついに天目山にて滅亡します。
同年7月、徳川家康は勝頼の死をとむらうため菩提寺として、景徳院を建立しました。ここには武田勝頼、北条夫人、勝頼の嫡男である信勝、そして最後まで主とともに戦った家来たちの位牌が安置されています。

この地で私たちは勝頼、北条夫人、信勝の辞世の句を拝見することができました。
「あたに見よ たれも嵐のさくら花 咲き散るほとは 春の世の夢」(勝頼)
「黒髪の乱れたる世ぞ果てしなき 思いに消ゆる露の玉の緒」(北条夫人)
「あたに見よ たれも嵐のさくら花 咲き散るほとは 春の世の夢」(信勝)


勝頼・北条夫人・信勝の辞世の句

武田氏滅亡の時、季節はいよいよ春の彩りが増す頃。私たちは雪の残る1月にここを訪れましたが、家臣や家来に裏切られながらの旅路を思うと、なんとも寂しく切ない気持ちがこみ上げてきました。その寂しさの中に、私たち一行は彼らの家族愛の絆の強さに心がひかれました。北条夫人は当時20歳。北条氏の所へ戻ることは十分可能だったはずなのに、彼女は夫・息子と最期を共にすることを選びました。この年齢でそれほどの覚悟を決め、最期まで貫いた北条夫人の人柄に、私たちは想いを馳せました。

この日、住職さんが寒いところ私たちの案内をしてくださいました。冷え切った境内の中、武田氏滅亡のいきさつを丁寧に教えてくださり、間近で位牌を見学させてくださりました。「また暖かい時にゆっくり話をしましょう」と、終始あたたかい笑顔で話してくださいました。ありがとうございます。

ここ景徳院では、2006年の修復工事中に、大量の経石が発掘されたことで話題になりました。文化的価値が高いということで発掘作業が進められており、同時に「訪れた方に写経をしてもらい、埋めなおそう」という運動も進められています。ここを訪れた時に、住職さんに一言お願いすれば誰でも参加できます。


発掘作業に関する膨大な資料を拝見させていただきました。


ここで写経することができます。









執筆者:前田友和, 分類:武田信玄と二十四将, 20:12
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第2回 信玄史跡めぐりツアー 2008/1/5
日時 2008/1/5(土)
参加者  横山、堀内、内池、齋藤、齋藤娘、金丸、三枝、
      一瀬、一瀬妻、白倉OB(1期)、柴田
行き先  10時30分 山梨クラリオン
      13時00分 甲斐善光寺
      15時00分 東光寺
      16時15分 解散

・山梨クラリオン内会議室にて本日の予習
信玄の歴史を振り返りながら、本日の甲斐善光寺と東光寺が歴史の中でどのような舞台になったのか学んだ。


・甲斐善光寺


善光寺本堂


本日のガイドさん、大西先生と夢甲斐塾生
大西先生は女性でありながら歴史に詳しく、長らくボランティアガイドをしていらっしゃるご様子でした。
「先生!」と言うと、「先生ではなく、大西でいいですから〜」と素晴らしく謙虚でお元気な方です。

甲斐善光寺は、開基(スポンサーのこと)武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の焼失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来をはじめ、諸仏寺宝類を甲斐の地に移すために建立されました。
信濃より大本願上人以下、お坊さま、門前町全て移転しお迎えいたしました。
その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田・徳川・豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座なさいました。
甲府では新たに、前立仏を御本尊と定め現在に到っています。

大西先生のお話によると、善光寺は東日本では最大の木造建築であり、阿弥陀如来像だけではなく門前町ごと移転したため、その当時はすごい賑わいだったそうです。
しかし、悲しいことに、武田氏滅亡の折信玄の息子勝頼、その嫡男信勝の首実検(討ち取った首の検分)を織田信長が行ったのもこの善光寺だったのです。


庭にある池には大きな鯉が泳いでいました。
この中に人面魚がいるそうです。一番大きな鯉ですが分かりますか?


山梨県で最大の大仏様です。


この鐘も信濃善光寺から移転した物です。
円で囲った部分がかけているのが分かりますか?
昔のことですので引きずった後があるのです。

本堂下には、「心」の字をかたどる、「お戒壇廻り」といって真っ暗な部屋の中の鍵を触れることによって、御本尊様と御縁を結ぶことが出来るとのこと。
全員で挑戦しましたが、大西先生の先導の下無事みんなが鍵に触れることが出来ました。

その他にも、様々な見所を親切丁寧に説明して頂き、
身近な甲斐善光寺が、全国に誇れる素晴らしいお寺だと再認識いたしました。

・東光寺


東光寺は、武田の時代に信玄の義弟諏訪頼重、信玄の実の息子義信が幽閉後自害したお寺です。
大西先生に、何故東光寺は色々な人が自害させられているのですか?と言う質問をしたところ
躑躅ヶ崎からのアクセスのよさもあるけど、高貴な方をお迎えし最後を迎えさせてあげるだけの格式のあるお寺だということと教えて頂きました。


信玄の息子、義信のお墓です。
信玄に対してクーデターを計り、幽閉され自害したと伝えられています。


信玄の義弟、諏訪頼重のお墓です。
諏訪侵攻の折、謀略によって東光寺に幽閉後自害いたしました。
左にある墓標は妻ねね(信玄の妹)です。
頼重の後を追うように亡くなったそうです。


大西先生、分かりやすく元気なガイドを有り難うございました。
執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 20:50
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第1回 信玄史跡めぐりツアー 2007/12/9
日時 2007/12/9(日)
参加者 横山、真壁、浅川、堀内、内池、齋藤、金丸、
      三枝、三枝さんの娘さん2人、柴田、柴田の妻
行き先   9時30分 昭和 彩の公園集合
      10時30分 風林火山博
      13時45分 武田神社
      16時00分 解散



・彩の公園にて本日の予習
武田神社の東側正門に近年発掘された「三日月堀」の説明プリントを読み、本日の目どころの予習を行った。

三日月掘りとは?
山本勘助、馬場信春などが得意とした武田築城術の代表的手法である。
侵略した信州のお城や、武田後期に築城した韮崎の新府城には認められるものの、
武田氏の居館である躑躅ヶ崎の館では無い物とされていた。
ところが!H18の発掘調査で新たに発見され、躑躅ヶ崎の館で三日月掘りが採用され、
その後、他の城に採用されたという事が分かったのである。

・風林火山博



残すこと後1ヶ月となった風林火山博へ行った。
たまたまなのか、ボランティアガイドさんは一人もいないとの事なので、
変わりに柴田が低いレベルだがガイドさせて頂いた。
展示されている内容は、非常に読み応えがあり、深く幅広いものであった。
最後に、みんなで簡易武田検定に挑戦して腕試し!
塾生から満点続出!!マイスターももうすぐか?

・昼食
甲府駅前の小作にて、ほうとうを食した。
熱くて食べるのも大変!
信玄が宝刀を考案したと言うが、これも今度調べなければ!

・武田神社
事前に依頼してあった、ボランティアガイド「丹澤哲蔵」様と合流、
とても高齢とは思えない知識レベルと情熱、足腰の丈夫さにはビックリした。


普段では気がつかずに通り過ぎてしまう境内の三葉の松は全国でも珍しく、
黄金色になり落葉することから金運の御利益があると言われております。

子供のお宮参りを行う菱和殿には渡辺隆次画伯揮亳による総数120枚
(内、4枚は「風」「林」「火」「山」の文字、2枚は「日輪」「月輪」と称する花菱の武田神社御神紋)の天井画が納められている。
甲斐八珍果をはじめとして、県内の草木禽獣や茸が画題として描かれ、甲州の博物誌的な趣を醸し出している。

その他にも、境内の井戸、予習した三日月掘り、出入り口の郭などの案内の後に、武田信玄の人間像についてのお話を頂いた。
そのお話によると、
信玄は軍事、軍略、文学、民生、宗教、文芸、生活など、様々な方面で素晴らしいリーダーであった。
信濃侵攻、駿河の水軍、甲州法度の次第、信玄堤などの土木工事、金山発掘、甲州升、人材登用、宗教の保護など
それを学ぶことにより少しでも信玄を感じたいものです。

さらに、あつかましいお願いでしたが、宝物館の案内まで依頼したところ快諾してくださり、そこでも親切丁寧なガイドを頂きました。

あっという間に予定の時間を過ぎてしまいここで解散となりました。

丹澤先生、寒い中長時間に渡り素晴らしいガイドを有り難うございました!







執筆者:smileauto, 分類:武田信玄と二十四将, 09:30
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「信玄ゆかりの地をめぐる」第1回開催のお知らせ
 夢甲斐塾7期生年間活動
 武田信玄と二十四将をテーマに、山梨の歴史を学ぶ

「信玄ゆかりの地をめぐる」第1回開催のお知らせ

まずは武田信玄に焦点をあて、彼のゆかりの場所に赴きながら理解を深めていきます。
日時:2007年12月9日(日)
集合時間:午前9時30分
集合場所:昭和町「彩の広場」
■行程・概要■
1.風林火山博
2.武田神社(武田氏3代のお屋敷跡)
3.積翠寺(信玄生誕の地)

参加ご希望の方は、下のリンクからお問い合わせください。
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本活動については、以下のリンクを参照してください。
「武田信玄と二十四将をテーマに、山梨の歴史を学ぶ」詳細はこちら
執筆者:前田友和, 分類:武田信玄と二十四将, 05:47
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武田信玄と二十四将をテーマに、山梨の歴史を学ぶ
夢甲斐塾7期生 年間活動
武田信玄と二十四将をテーマに、山梨の歴史を学ぶ


その時代のリーダーのことを学んで今に活かせないか。そのような思いから第7期夢甲斐塾生は、自分たちで甲斐の武将について学ぶ活動を始めました。武田信玄と二十四将にまつわる史跡を廻りながら、武将の真の姿を学びます。あなたもぜひご一緒に参加しませんか?
会費無料(実費のみ)

上記活動について参加ご希望の方は、下のリンクからお問い合わせください。
お問い合わせはこちら
執筆者:前田友和, 分類:武田信玄と二十四将, 05:26
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